帰国から1ヶ月、あれから5ヶ月

ヨーロッパから帰国し、一ヶ月が経ちました。この一ヶ月の間、僕はまだ旅の延長線上にいて、あたまのどこかでは常にヨーロッパでのこと、そしてこれからのことが浮かんでいました。

旅の間、一度しかブログを書くことがありませんでした。それも、ヨーロッパに着いたその日ただ一度。Twitterでは、ときどきつぶやいていたのですが、ブログを書くまでには至らず。どうもそこでのことをうまくことばにできず、そして整理も出来ず、ずるずると今日に至りました。

ヨーロッパでの3週間の間、3日に一度ほど、長距離の移動をし、写真を撮り、小説を読み、音楽を聴き、出会った人たちと話し、ビールを飲み、考えごとをする、といった生活を送っていました。

とは言え、どこへ行くにしても、何をするにしても、手持ちの地図や本だけではどうしようもなく、電車に乗るにしろ、目的地に行くにしろ、買い物をするにしろ、誰かに尋ねないとわからないといったような、その日一日を過ごすことに必死でした。日本では、ごく当たり前のようにしていたことが、当たり前にはできないことが多く、根本的な「生きる」ことを中心に置く生活を送っていました。そのため、一日一日がとても鮮やかで濃く、刺激的でした。

ヨーロッパにいる間、毎日のように「日本」のことがあたまに浮かんできて、否応なしに、それらについて考えさせられました。それは、ふとした何気ない光景がきっかけだったり、誰かと話しているときだったり、小説を読んだり音楽を聴いているときだったり。意識するにしろしないにしろ、日本とヨーロッパの差異から日本という国やその社会の特徴が浮かんできたり、日常との距離から今の日本の現状についても、一歩距離を置いたところから考えさせられました。

日本がどれだけ安全で、清潔で、細やかで、丁寧で、無防備で、潔癖で、神経質で、過保護で、他人に気を配り、他人の目を気にする社会か。

日本とヨーロッパの国の生活を比べてみて、現代社会の中で快適に過ごすためのあらゆるものが揃えられている日本と、現代社会の中で生きていくための基本的なものだけが揃えられているヨーロッパ(もちろん全てがそうではないと思いますが)という印象を受けました。自分のことは自分でする、自分のことは自分で守る、というタフさを多くのヨーロッパの人たちは日本人以上に持っている気がします。一方日本人は、他人に対する配慮や同調性、他人の気持ちを察する力を、ヨーロッパの人たち以上に持っている気がします。このどちらが優れているということではなく、それゆえにコミュニケーションのとり方の差異や、社会のあり方の差異などもある気がしました。そこに差異があるからこそ、飛び込んで一歩踏み込み、自分から知ろうとしていかない限り、そこに馴染んだり、深い関係を築いていくのは難しいんだろうなと思います。

今回、このように日本の外に出たことにより、一層日本という国の社会や文化、歴史に興味を持ちました。大英博物館で日本の歴史や文化の展示を見た瞬間、ハッとしました。今まで見ていた日本のイメージとはどこか違い、それがとてもシャープで洗練されたものに見えました。きっと、日常から切り離された上に、内からと外からを比べたことにより、今までとは違った発見があったんだと思います。また、日本以外の国や人々が見ている“日本像”というものから、とても大きな示唆と可能性を与えられた気がします。僕らは、自分以外の何かと比べることで、自分を確認しているんだと思うのです。自分だけでは自分というものは存在し得ない。

もう一つ、というより、何よりも強く考えさせられたのは、2011年3月11日に起こった、とてもつもなく大きな震災のこと。そして、原発事故による深刻な放射能汚染の問題。これは、3.11以降、毎日考えざるを得なかった大きな問題で、ヨーロッパに行ったために考えさせたということではないのですが。それでも、その“渦中”で一度日本を離れたことにより、日常の中からの視点とは違う、別の視点から考えさせられた気がします。それは、今現在のことよりも、これからのことを中心に置いた視点で。

その中でもっとも強く考えさせられたこと。いまだに止まらない放射性物質の放出と、それによる広範囲にわたる深刻な放射能汚染。日本という小さな島国で起こった、現在のみならず、今後の僕らの生活にも大きな影響を与え続けていくであろう、あまりにも大きすぎる事態。日が経つにつれ、事態が収束に向かうどころか、よりその深刻さと複雑さが見えてきました。

今回、ヨーロッパにいた間に、何度かあたまを過ったこと。

今後さらなる事態の悪化や他の原発事故などにより、もし日本という国の大部分で安全に暮らせなくなったとしたら、故郷や今住んでいる土地を奪われてしまったとしたら、大切な人たちを失ってしまったとしたら、食べたいものどころか口にするあらゆるものの汚染を気にし、海、山、川、大地のすべてを疑わなければならなくなったとしたら。そして、生まれてくるこれからの世代の健康や生活にも大きな負担を与え続けていくとしたら。

もうすでに、僕らはいくぶんかを失ってしまった。それは紛れもない事実。そして今のままでは、僕らは、何事にも変えることのできない、本当に大切なものを深く失い続けていくでしょう。

いくら節電に心掛けたとしても、いくら経済活動に励んだとしても、いくら健康に気をつかったとしても、いくら毎日を楽しもうとしたとしても、根底の部分を失ってしまっていては、それはとても空虚なものになるでしょう。

果たして、見えない、聞こえない、臭わない、味がしない、触れられないものに対し、どのように気をつけていけばいいのでしょうか。それを感知するための機器を常に持ち歩きながら暮らしていくべきなのでしょうか。それとも、このことを“無かった”ことや“終わった”こととし、目をそらして気にしていないかのように振る舞い、何事もなかったかのように、今までのように暮らしていくべきなのでしょうか。

「そこにあるもの」から、「そこにあったもの」へ。それは自分たちの手によって自ら失ってしまった。悔しいし、悲しいし、辛いけど、この現状を真正面から受け止め、この先、どこに向かおうとするのかを真剣に考え続けていかなければならない。そして、失いながらも、強さを持ち、このことを背負い、コミットしていかなければならない。

この事態を自分事として受け止め、自分の暮らしの中から見つめ直し、本当に必要なものや失いたくないものが何かを考えていけば、自分なりの関わり方が見えてくるんだと思います。

 

こうしている今も、僕らは“渦中”にいる。

 

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