25年前の言葉

先日、実家に帰りました。
5日間の滞在で、主に撮影をしていました。
僕にとって地元は特別な場所で、他のどこにも変えることのできない唯一のものです。
京都に比べ、地元は涼しく、過ごしやすい8月終わりの5日間でした。

そんなある夜、大学に行く前まで使っていた、海が見えるかつての自分の部屋に置いてあったアルバムをふと手に取ってみました。
僕が生まれたときのアルバムです。
その当時の記憶は当然ながら全くなく、しばらくそのアルバムも見ていなかったので、それがどんなものだったのか全く想像がつきませんでした。

開いてみると、そこには一枚の小さな冊子が挟まれていました。
僕の生まれたときの足形と、両親から僕に宛てたメッセージがありました。
もちろん、生まれた当時の僕は文字を読めるはずも無く、言葉を理解できるはずもありません。
25年前、目の前にいたその小さな子どもの将来に向けた、もしくは自分たち自身に向けた言葉だったのでしょう。

陣痛が始まったときのこと、そして生まれたときのこと、さらに僕の名前の由来について書いてありました。
今よりも25歳若い両親の言葉。
その手書きの言葉は、何だかとても温かいものでした。

25年後の僕が、それを見て、その当時のことをこうして初めて知る。
(今この時点で記憶にないことは、「初めてのこと」とする。)

何だかとても不思議な気分でした。
当時の僕ではなく、今の僕に宛てられた言葉のようで、とても生きていました。

「どんな大人になっているのでしょうか。」
と書かれた言葉を見たとき、まさにその僕がここにいました。

25年という歳月がどれだけのものだったのか、こうして今ここにいる僕には、わかりません。
気づけばこうして今ここにいました。
25年の間の記憶も断片的で曖昧なので、それが長かったのか、短かったのかよくわかりません。
きっと、25年前とは社会情勢も大きく変わっているでしょう。
2011年に対するイメージも、きっと違うでしょう。

ただ、それがどうであれ、こうして僕が今ここにいながらなんとかやっているのは確かです。

25年前の両親はどのような僕の未来を思い描いていたのでしょうか。
そして、こうなることを少しでも思い描いていたのでしょうか。
そんな僕も、いつか両親と同じような気持ちを味わうことになるのでしょうか。

今こうしてここにあること自体が、とても尊いことなんだということに気づかされる2011年です。

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