“変わる”ということについて。

最近、”変わらない”はずだったものが、どんどん変わっていっていることをひしひしと実感する。
頭では、「そんなものはない。」と理解はしていたけど、実際に自らの体験を通し、
実感としてそれを感じるのとそうでないのでは全く違う。

その変化は「社会」のような大きな規模でなくとも、極々個人的な範囲でも起きている。
よくよく考えれば、当たり前のことだ。
僕が歳をとっていくように、あらゆる物事や人は時間の経過とともに変わっていく。
時間だけがただただ流れていくわけではない。

僕はどこかで、”変わらないものがある”と信じていたのかもしれない。
というより、どういうわけか信じたかったのかもしれない。
だけど、今こうして僕を取り巻く環境は、たとえば一年前のそれとはずいぶん変わっているはずだ。
それでも、頭の片隅で”変わらないものがある”と感じていたのは、僕だけがどこかある地点にて
留まっていたからかもしれない。

僕だけがある地点で留まって、回りはどんどんどんどん進んでいく。
待った無しに。

いや、僕自身もずいぶん変わっているはずだ。
むしろ、日々あらゆる刺激を受けている中で、変わらないほうが不思議だ。
それでも、あまりそう感じないのは、「僕」を基準に周りの物事を見て感じているからかもしれない。
年齢や社会的な身分から見た僕ではなく、実感としての「僕」を通してみているからかもしれない。
さらに、その「僕」の実感は、常に「一点」でしか存在しえない。
たとえ、過去を振り返ろうが、未来を想像しようが、遠く離れた誰かのことを考えようが、
それをしている僕は、常に”今ここにいる”「僕」でしかないからだ。

僕じゃない誰かが、どこに行こうが、何をしようが、何を考えようが、僕はそれを常に知れるわけがない。
それはどんなに近しい人であってもそうだ。
そんな誰かも、たとえ変わっていないようにみえたとしても、僕と同じようにきっとどこか日々変わっているはずだ。

僕も僕以外も日々変わっている。
それがたとえどんなに小さな変化だとしても、変わっていることには違いない。
そしてそれが、日々蓄積されていく。

僕の変化を通して、誰かが変わっているということもあるかもしれない。
逆もしかりだ。
そうして、僕も誰かも、いろんな要因によってどんどん変わっていく。

僕と僕以外が変わっていくことで、それに伴いさらに変わっていくこと。
それは「関係性」だ。

ある時点で何かと出会ったとき、そこには何らかの「関係」が生じる。
たとえそれがその場限りのものであったとしても。
それは、自分の意思とは関係なく生じることもある。
そしてその「関係性」は、コンタクトの頻度、行動、時間、距離などによって、デリケートに変わっていく。
出会ったときと全く同じ「関係性」をその後も保てるとは限らないし、そんなことはむしろ稀だろう。

「関係性」というものは、とても流動的で不安定なもので、多くの場合、個人の主観、
過去・現在を含めての経験によりつくられる。
そこには、多くの”偶然性”や外的な要因も含んでいるだろう。
別の「関係性」の影響も受けているだろう。
自分の意志のみでは築けないし、保てないものだ。

こうして「関係性」も日々変わっていく。
いろんな要因によって。
それは、その全てをコントロールしきれないものでもある。
それでもそこに自らコミットしないと、その関係はどんどん遠く薄くなっていく。

「関係性」は”相対的”なものでしかない。
そしてそれは、一方的なものでもなく、”相互的”なものである。
全く固定されていないし、一方的に固定することもできないのだ。

とは言え、そのいくらかを自分が担っているというのは間違いないだろう。
たとえ、その間に多くの偶然性などの外的要因が含まれているとしても。
そんな、それぞれの「関係性」において、自分はどのように、どれほどコミットしているのだろうか。

僕も”あなた”もいろんな要因によって、図らずとも変わり続けている。
そして、その”関係性”も変わり続けている。

変わり続ける中で、僕はこの先、誰とどんな「関係性」を築いていくのだろうか。
たとえ、今あるいくらかの「関係性」を失ったとしても、僕はきっと新たに「関係性」を築いていくのだろう。

目に見えるもの、見えないもの。
そのどちらも、絶えず変わり続けていく。

僕はそれを受け入れていかなければならない。

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